カッパドキアの支配者一覧では、古代中央アナトリアのカッパドキア地域に存在した支配者を列挙する。具体的には、ハカーマニシュ朝がカッパドキア州に設置したサトラップと、ヘレニズム王国のひとつカッパドキア王国の王が含まれる。
カッパドキアのサトラップ (紀元前380年ごろ - 紀元前331年)
ハカーマニシュ朝は、カッパドキア州にサトラップを設置して支配した。
- ダタメース 紀元前380年ごろ–紀元前362年
- アリアムネース1世 紀元前362年–紀元前350年
- ミスロブザネス (紀元前334年没)
- アリアラテース1世 紀元前340年代–紀元前331年
カッパドキアの君主 (紀元前331年–紀元前250年代)
- アリアラテース1世 紀元前331年–紀元前322年
紀元前331年にハカーマニシュ朝がマケドニア王国に征服された後も、サトラップのアリアラテース1世はカッパドキアのほぼ全域を支配し、征服者に抵抗し続けた。しかし紀元前322年にマケドニアの将軍・摂政ペルディッカスに敗れ、磔刑に処された。
- マケドニア支配期の支配者
- エウメネス(総督)
- アンティゴノス1世 (フリュギア太守を経て摂政、カッパドキアを支配。紀元前301年に戦死)
ペルディッカスはカッパドキアをアレクサンドロス3世の書記官だったカルディアのエウメネスに与えた。しかしディアドゴイ戦争の中でエウメネスは殺害され、彼に取って代わったアンティゴノス1世も敗死した。
アリアラテース1世の甥で養子のアリアラテース2世は、マザカ周辺の上カッパドキア支配を回復し、セレウコス朝の宗主権下でカッパドキアの君主となった。一方で下カッパドキアには黒海沿岸を支配する勢力が紀元前301年から支配するようになり、こちらは紀元前281年に王号を名乗りポントス王国となった。
- アリアラテース2世 紀元前301年–紀元前280年
- アリアムネース2世 紀元前280年–紀元前230年
カッパドキア王国 (紀元前250年代–17年)
アリアラテース3世以降、カッパドキアの支配者はセレウコス朝の弱い支配下に置かれつつも、王と認められた。
- アリアラテース3世 紀元前255年–紀元前220年
- アリアラテース4世 紀元前220年–紀元前163年
- アリアラテース5世 紀元前163年–紀元前130年
- アリアラテース6世 紀元前130年–紀元前116年
- アリアラテース7世 紀元前116年–紀元前101年
- アリアラテース8世 紀元前101年–紀元前96年
- アリアラテース9世 紀元前101年–紀元前96年
- アリオバルザネース1世 紀元前96年–c.紀元前63年
- アリオバルザネース2世 c.紀元前63–51年
- アリオバルザネース3世 紀元前51–42年
- アリアラテース10世 紀元前42–36年
- アルケラオス 紀元前36–17年
系図



