ゾクチェン(蔵: རྫོགས་ཆེན་、rdzogs chen)は、主にチベット仏教のニンマ派(古派)と、チベット古来の宗教であるボン教に伝わる教えである。ゾクチェンという言葉はチベット語で「大いなる完成」を意味する「ゾクパ・チェンポ」(རྫོགས་པ་ཆེན་པོ་、rdzogs pa chen po)の短縮形であり、人間を含むあらゆる生きもの(一切有情)の「心における本来の様態」(sems nyid、セムニー)、またはあるがままで完成された姿のことを指している。
また、その姿を理解することにより、速やかに優れた覚醒の境地に至ることができるとされている。
漢訳は「大円満」あるいは「大究竟」、英語では Great Perfection などと訳される。アティヨーガ(atiyoga)とも呼ばれる。日本や欧米ではゾクチェンの修行者をゾクチェンパと呼称することもあるが、チベット仏教では一般的用法ではない。
起源
学術的には、9世紀頃までにニンマ派のゾクチェンの原型が成立していたと推察されている。その成立には中国の頓悟禅の影響があったのではないかと指摘される。ゾクチェンの三部、セムデ(心部)とロンデ(界部)とメンガクデ(秘訣部)の内、特にセムデとロンデにおいて禅に通ずる面があると言われている。
ゾクチェンに禅の影響があるとする主要な説には、次の3つがある。
- 東洋学者のジュゼッペ・トゥッチの研究による「中国禅の摩訶衍(まかえん)禅師の影響がある」とする説。
- インド学の山口瑞鳳の研究による摩訶衍禅師からランダルマの破仏までの間に「九世紀の初期に完成度の高い中国禅が中国から入り、影響を与えた」とする説。
- 日本の諸研究による「摩訶衍禅師より以前に、敦煌文献・他に見られるような禅の影響があった」とする説。
ゾクチェンの起源はボン教にあるという説もあり、この説を採る僧はボン教とニンマ派の双方に存在する。ニンマ派の伝承では、インド北西にあったと言われるウッディヤーナ(Uḍḍiyāna)で生まれたガラプ・ドルジェ(dga' rab rdo rje)がゾクチェンの教えを伝えた重要な祖師とされる。一方、ボン教の経部(カンギュル)に属する『シャンシュン・ニェンギュー』(zhang zhung snyan rgyud)は、ゾクチェンを西チベットにあった古代シャンシュン王国より伝来した教えとしている。これについて、東チベット出身のゾクチェンのラマであるナムカイ・ノルブは、ボン教文献を調査して両者の起源を考察し、ウディヤーナ国はシャンシュン王国の属国であったか、両国には何らかのつながりがあったのではないかという仮説を立てた。 ナムカイ・ノルブは、修行法の面ではロンデと禅との関連性は見出し難く、また、メンガクデは禅より密教的で、発想面でもきわめて独特であるという。
ゾクチェンにおいては青空を見つめる瞑想の他に、空間を見つめる瞑想「アーカーシャ」、睡眠中の瞑想「ミラム」(夢見)、暗闇の瞑想「ヤンティ」等々、さまざまな実践法があることが知られている。
ゾクチェンとチベットの諸宗派
ニンマ派のゾクチェンとボン教のゾクチェンに大別され、それぞれの宗派(教派)の教義の中心をなしている。
また、ゾクチェンとは原初の境地を指す言葉であって、特定の宗派だけに内属するものではないと主張する向きもある。ナムカイ・ノルブは、かつてチベットでは自分の帰依する宗派や根本ラマ以外に別の派からも教えを伝授されるのはよくあることであった、ということを強調し、チベット仏教の主要宗派のすべてにゾクチェンの系譜を受け継ぐ人がいたと主張している。
チベット仏教
チベット仏教のゾクチェンの教えはニンマ派の真髄の一つであり、ニンマ派の教義に深く結びついていて、その開祖パドマサンバヴァがその信仰の源であると考えられてきた。今日セムデの一部を構成している最初期のゾクチェン文献は8世紀頃にまで遡ることができる。それはチベット仏教のいわゆる前伝期に当たり、新訳諸派の台頭とともにパドマサンバヴァの信徒たちがはじめてニンマ派(古派)と呼ばれるようになるずっと前のことである。チベット仏教の僧は他宗派の師からも灌頂や教えを受けている場合があり、ゾクチェンはチベット仏教の長い歴史の中でサキャ派やカギュ派、ゲルク派に属する人に伝えられることもあった。新訳派の間ではインドのサンスクリット経典に含まれない偽経であるとして批判的な学者が多かったが、ゾクチェンに関わりのある人物も輩出している。カギュ派では、ロンチェンパと同じ師のクマラーザの下で学んだと伝えられ、ロンチェンパにも成就法を授けたカルマパ3世ランジュン・ドルジェ (1284-1339) が殊に著名である。ランジュン・ドルジェはカギュ派のマハームドラー(チャクチェン)とニンマ派のアティヨーガを統合し、その教えはカルマ・ニンティクと呼ばれている。ゲルク派ではダライ・ラマ5世、13世、14世もゾクチェンの師として知られているが、ゲルク派の座主ではないが高位のラマであるダライ・ラマがゾクチェンを取り入れることは、かねてよりゲルク派の保守層の一部で論争の種となっている。
ニンマ派
ゾクチェンは、ニンマ派の伝統では歴史上のパドマサンバヴァ(蓮華生)が伝えた教えの一つに数えられ、ニンマ派の六大寺院に大別される六大流派には、それぞれに異なる流れのゾクチェンが伝わっている。14世紀にゾクチェンの教えをまとめて体系化した学僧ロンチェン・ラプジャムパが明確化したニンマ派の「九乗教判」によると、無上瑜伽タントラの頂点であるアティヨーガ乗に位置づけられ、法身普賢(クントゥ・サンポ)を主尊とする。ニンマ派においては、このアティヨーガ乗の境地がゾクチェンと等しいとされ、ゾクチェンはアティヨーガの異名であり、同時にその教えの法流の名称でもある。
仏教教義上の位置づけ
ニンマ派の『大幻化網タントラ』を依経とする密教的境地のゾクチェンと、太古からのスタイルを守るとされるボン教のゾクチェンの同一性に関して、ゾクチェンが純粋な仏教の教えであるとするニンマ派の教学的観点から問題視されることがある。ニンマ派のドゥジョム・リンポチェがチベット亡命政府主催のチベット仏教者会議において、ニンマ派はボン教と異なるインドの仏教であるとしてニンマ派を純粋な仏教として主張したことがある。また、サテル(地下の埋蔵経)の『ドゥジョム・テルサル』によるゾクチェンは、『宝性論』等を主とした如来蔵と唯識の説を背景とするインドのヴィクラマシーラ大僧院の僧院長であった密教の大学者ラトナーカラシャーンティ(980-1050)の説を引用することがある。
ダライ・ラマ14世は、ロンチェン・ラプジャムパの『法海の宝蔵』の註釈や、ジグメ・リンパの直弟子の3代目に当たるトゥルクであるドドゥプチェン・ジグメ・テンペ・ニマ (1865-1926) の著述などを基に、主に中観帰謬論証派の見地から、ゾクチェンのいう原初の清浄性は顕教とは空性の意味が異なるが、ある意味で空(くう)であると説いている。ロンチェンパや近世の学僧ミパム・ギャツォ(1846-1912)のゾクチェンにおける空性の理解は、中観帰謬論証派の見解とほとんど合致している、もしくは両者の見解が相補的なものであることを主張している。また、ミパムの『宝性論註』等は、ゾクチェンにおいて第二転法輪の『般若経』の空性の教えと第三転法輪の『如来蔵経』の教えを結びつけている。かれらは「他空」(シェントン:gzhan stong)という言葉を使用しているが、ダライ・ラマ14世によれば、そのほとんどは「基」(gzhi)としての心である「リクパ」(rig pa:純粋意識)のことを指しており、過去のチベットでチョナン派のトゥルプパ・シェーラプ・ギェルツェンが唱え、梵我などの非仏教の教説に通じるものと批判された『他空説』でいうところの他空とは意味が異なるという。
ニンマ派のゾクチェン
ゾクチェンの三部
ニンマ派のアティヨーガに属するゾクチェンの教えは、以下のようにセム(心)、ロン(界)、メンガク(秘訣)の三部に分類される。チベット学者のサム・ヴァン・シャイクは、ゾクチェンの三部は、初期のニンティク文献の登場に伴ってそれ以前の古いゾクチェンの形態とを区別するためにできた分類ではないかと考察している。
- セムデ(心部、心の本性の部)
- ここでいう心は菩提心を指している。8世紀後半から9世紀頃に活躍した訳経法師ヴァイローチャナ(パドマサンバヴァの二十五大弟子のひとり)が留学先のインドでシュリーシンハに学び、チベットに請来した教えとされる。『クンチェ・ギェルポ』はセムデの18の論書群の根本テキストとされる。その第31章には、ヴァイローチャナが最初に翻訳したゾクチェンのテキストのひとつとされる「リクパィ・クジュク」(知恵のカッコウ)と題された6行の詩が収められている。この「リクパィ・クジュク」の古い写本が敦煌文献から発見されており、敦煌が一時期吐蕃に占領されていたことから、実際にこのテキストが吐蕃王国時代の8〜9世紀に遡る古い来歴をもつ可能性は高いとされている。
- ロンデ(界部、法界の部)
- セムデと同じくヴァイローチャナに由来するとされる。根本タントラは『ロンチェン・ラプジャム・ギェルポ』。
- メンガクデ(秘訣部または教誡部)
- メンガクは秘訣の意で、口訣、口伝とも訳され、サンスクリットではウパデーシャと書かれる。メンガクデは、パドマサンバヴァが説いていた教えに由来するとされる。これらはパドマサンバヴァ自身やイェシェ・ツォギャルらによって一度秘匿され、後世に発掘されたものとされるため、基本的にメンガクデの教えはテルマである。秘匿された理由は、当時のチベットにはまだ受伝するに足る受け手がいなかったためとも、ランダルマの破仏を予見したためとも言われる。メンガクデに分類される教えには次のようなものがある。
- 「十七タントラ」:起源の定かならぬ古タントラ群で、メンガクデの最古層とされる。根本タントラは『ダテルギュル』。
- 「ビマ・ニンティク」:ヴィマラミトラ・ニンティク。ヴィマラミトラに由来するとされる口伝書群。11世紀に再発見されたものとされるが、厳密にテルマとは言えない面がある。
- 「カンド・ニンティク」:パドマサンバヴァがティソンデツェン王の娘ペマサルに伝えた教えが埋蔵され、後にテルマとして発掘されたとされる教え。
- 「ニンティク・ヤシ」:14世紀にニンマ派の教学を大成したロンチェンパがビマ・ニンティクとカンド・ニンティクを統合した体系。
- 「ロンチェン・ニンティク」:ロンチェンパのニンティク。18世紀のジグメ・リンパがロンチェンパの教えを瞑想の中で発見し、蘇らせたと称するもの。
セム、ロン、メンガクという分類は、ガラプ・ドルジェの伝えたゾクチェン・タントラを弟子のマンジュシュリーミトラが三部に分けたのが始まりと伝えられる。ガラプ・ドルジェの三要訣にはさまざまな翻訳があるが、ここで仮に、ナムカイ・ノルブの解説を基に簡潔に示すと以下のようになる。
- 直接に心の本性に導き入れ(基) - セムデに関連
- 疑いなき不二の境地にとどまり(道) - ロンデに関連
- 不二の三昧の境地にとどまり続ける(果) - メンガクデに関連
ボン教のゾクチェン
ボン教においては「アティ」、「ゾクチェン」(ここではボン教の一系統としての狭義のゾクチェンを指す)、「シャンシュン・ニェンギュー」という3つの独立したゾクチェンの伝統が認められ、受け継がれている。ボンの創始者であるトンパ・シェンラプの説いたとされる教義は「四門五蔵」と「ボンの九乗」の2系統に分類され、ボン教のゾクチェンもその中に位置づけられている。
註
出典
参考文献
- 佐藤長 『古代チベット史研究』(上)、京都・東洋史研究会、1958年刊。
- 山口瑞鳳 「チベット仏教」、『講座 東洋思想』5、東京大学出版会、1967年刊。
- G.Tucci(ジュゼッペ・トゥッチ),W.Heissig(ワルター・ハイシッヒ) 『Die Religionen Tibets und der Mongolei』、Stuttgart Berlin Koln Mainz、1970。
- 中村元博士還暦記念会 編 『インド思想と仏教』、春秋社、1973年刊。
- 柳田聖山 編 『中国禅思想とその周辺地域への波及,及びインド禅定思想の総合的研究』、昭和54年度科学研究費補助金総合研究(A)、1980年。
- 平松敏雄 「西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン『一切宗義』 ニンマ派の章」、東洋文庫、1982年刊。
- Giuseppe Tucci 『THE RELIGIONS OF TIBET』、Translated by Geoffrey Samuel、University of California Press、1988。
- 松長有慶 『理趣経』(中公文庫)、中央公論社、1992年刊。
- 海野孝憲 著 『インド後期唯識思想の研究』、山喜房佛書林、2002年刊。
- Van Schaik, Sam (2004). Approaching The Great Perfection. Boston: Wisdom Publications
- 宮坂宥勝 『講説 理趣経』、四季社、2005年刊。
- 田中公明 『図説 チベット密教』 春秋社、2012年。
関連文献
- ナムカイ・ノルブ 『虹と水晶』 永沢哲訳、法蔵館、1992年。
- ラマ・ミパム 著、タルタン・トゥルク 解説 『静寂と明晰』 林久義訳、ダルマ ワークス、1992年。
- ナムカイ・ノルブ 『ゾクチェンの教え』 永沢哲訳、地湧社、1994年。
- 高藤聡一郎 『秘伝!チベット密教奥義』、学習研究社、1995年刊。
- 中沢新一 『三万年の死の教え』 角川書店〈角川文庫ソフィア〉、1996年。
- ラマ・ケツン・サンポ 著 『知恵の遥かな頂』、中沢新一編訳、角川書店、1997年。
- ナムカイ・ノルブ 『チベット密教の瞑想法』 永沢哲訳、法蔵館、2000年。
- ナムカイ・ノルブ 『叡智の鏡』 永沢哲訳、大法輪閣、2002年。
- ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 『ダライ・ラマ ゾクチェン入門』 宮坂宥洪訳、春秋社、2003年。
- H.H.the Twelfeh Gylwang Drukpa 『A Rosary of Jewels』 Lobsang Thargay&Ani Tenzin Palmo、International Drukpa Pablicaitions、2003年刊。
- シャルザ・タシ・ギャルツェン 『智恵のエッセンス ボン教のゾクチェン』 春秋社、2007年。
- 談錫永 譯著 『聖妙吉祥真実名經 梵本校譯』、全佛文化事業有限公司、2008年刊。
関連項目
- 三昧耶戒
- クンツサンポ
- ンガッパ
外部リンク
- 安田章紀 「ロンチェンパのニンティク思想」
- Sam van Schaik, "THE EARLY DAYS OF THE GREAT PERFECTION" (英語)




